公開

美術館で世界的彫刻家イサム・ノグチ(1904-1988)の作品に対峙するとき、素材やジャンルも含めその多様さに驚かされ、どれも生命の息づかいのようなものを感じさせられます。また美術館だけに収まらないモニュメント、遊具デザイン、庭、ランドスケープといった幅広い制作をしたノグチは「地球を彫刻した男」とまで呼ばれています。今から約30年前、1988年の年の瀬に亡くなったノグチの遺骨の半分はアメリカ、半分は高松市牟礼の地の石の中に眠っています。戦争を挟んだ20世紀という激動の時代背景に加えて、その生い立ち(詩人野口米次郎とアメリカ人レオニー・ギルモアを両親にロサンゼルスで出生)から、自分はアメリカでは日系、日本ではアメリカ人だと認識され、常にどちらの文化圏にも属さない孤独の風にあたっていると感じていたそうです。神奈川にもゆかりの地がいくつかありますが、なかでも茅ヶ崎で三角形の家を建て母妹と住んでいた少年期の記憶は、その後のノグチの芸術家としての人生に少なからず影響を与えました。彫刻家となってから日本を訪れるごとに、石や大地に熱中しそこに命を吹き込もうとしたのはどうしてなのか。庭という場にこだわったのはなぜなのか。その理由の一端を体感するため、ノグチの作品に会いに行きたくなるような資料を、日本での逸話を交えながらご紹介します。

図書のとびら

紹介資料表紙a 紹介資料表紙b 『イサム・ノグチ 宿命の越境者』 上・下
ドウス昌代著 講談社 2000 請求記号:上:712.53JJ/4/1 (21245444) 下:712.53JJ/4/2 (21245451) 県立書庫

著者が本書を書くきっかけとなったのはアメリカ国立公文書館で第二次世界大戦中の日系アメリカ人の資料の中に、イサム・ノグチの関連ファイルを見つけたことが始まりでした。ノグチが人生の節目で出会った人々を訪ね取材5年、執筆5年をかけたといわれる労作です。最後の筆をおいたときに腰が立たなかったとも語っています。ノンフィクション形式で、母なる存在への渇望を背景に帰属の場を求めて悩める人間ノグチの一生を丹念に追っています。

紹介資料表紙 『石を聴く イサム・ノグチの芸術と生涯』
ヘイデン・ヘレーラ著 北代美和子訳 みすず書房 2018 請求記号:712.53/8 (22987622) 県立公開

2018年は没後30年を記念しイサム・ノグチにまつわる新刊がいくつか出版されました。そのうちの一冊です。本書はノグチの人間的な側面も描きながら、注目しているのは、たえず新しい作品を生むため彫刻、素材、空間、抽象、自然と格闘し続けたノグチの葛藤とその葛藤の超克です。ノグチの生涯を総合的に綴った評伝です。図版も多数収録されています。

紹介資料表紙 『イサム・ノグチ あかりと石の空間』
イサム・ノグチ リブロポート 1985 請求記号:714T/15 (12633616) 県立書庫

1985年2月有楽町アートフォーラムで開催された「イサム・ノグチ展 あかりと石の空間」の図録です。写真は厚木市出身の安斎重男氏。イサム・ノグチを知らなくても[あかり]と名付けられた和紙と竹ひごを使った、提灯に似た照明器具をご存じの方は多いかもしれません。[あかり]が生まれたのは1951年岐阜市長が伝統産業の提灯の生産を活気づけてもらいたいとノグチの協力を仰いだことが始まりでした。この時の展覧会はあかりの連作と1984-1985年作成の石彫を集めて開催されました。ノグチはあかりを照明器具とは呼ばずに光の彫刻であると言い、終生デザインを繰り返し世界ブランドに育てあげました。硬く重い石と柔らかく軽い和紙の光源が調和する幽玄な世界がこの一冊に出現しています。本の中にはノグチの直筆の手紙もあります。

紹介資料表紙 『イサム・ノグチと北大路魯山人』
神奈川県立近代美術館 ほか編 神奈川県立近代美術館 1996 請求記号:710.87/39 (20952156) 県立書庫

1996年国内4都市の美術館で順次開催された「イサム・ノグチと北大路魯山人展」の図録です。イサム・ノグチと魯山人の2部構成になっており、詳しい作品解説がされています。1952年魯山人は北鎌倉の築200年の自宅の離れを当時新婚だったノグチ、山口淑子夫妻(後に離婚)に住まわせ陶土や窯まで提供しました。この展覧会ではノグチの寓居がそっくり再現されていたそうです。ノグチは純日本的環境に身をおいたこの時期に、自然を大人として再発見します。そして彫刻を人間、自然と一体化させたいという思いが生まれ、のちの庭園設計に進んでいきます。ノグチは魯山人から多くを学びましたが、魯山人もまたノグチを偉大な美術家だと認めていました。単一のジャンルにとどまらなかった2人の芸術家の美意識の表れた資料です。

紹介資料表紙 『イサム・ノグチ展 モエレ沼公園グランド・オープン記念』
イサム・ノグチ[作] 芸術の森美術館 編 札幌市芸術文化財団 2005 請求記号:712.53PP/5(21910823) 県立書庫

価値ある芸術作品は最後に未来への贈り物として残ると言っていたイサム・ノグチの最後にして最大の作品が札幌市郊外の[モエレ沼公園]です。かつて実現せずに終わったプロジェクトや、遊び山(プレイマウンテン)構想などを集大成しました。建設プランの最終確認をしてわずか1カ月後にノグチは亡くなりました。関係者が遺志を継ぎ17年後の2005年、もとゴミ集積場だった土地は[モエレ沼公園]として生まれ変わりました。本書はそのオープンを記念して札幌と東京で開催されたイサム・ノグチ展の図録です。代表作[エナジー・ヴォイド]の展示写真別刷り2枚付き。「モエレ沼公園に関する研究報告」(八代克彦著)も掲載されています。

紹介資料表紙 神奈川県立近代美術館展観目録
神奈川県立近代美術館 編 神奈川県立近代美術館 1951 請求記号:K70.4/18 1-1(50756352)常置 かながわ資料室書庫

1952年9月、鎌倉の鶴岡八幡宮内にあった神奈川県立近代美術館で開催された「イサム・ノグチ展」の展観目録です。イサム・ノグチは生涯に3度作陶しましたが、この個展はいまでは伝説的な語り草となっていて、同美術館のその後の活動の方向を決定づけるような大きな衝撃をもたらしたそうです。(元神奈川県立近代美術館館長 酒井忠康氏解説より)この時代、近代美術館展観目録は小冊子型がほとんどですがイサム・ノグチ展の目録は大きな紙を8つに折ったもので、シンプルでありながらインパクトがあり今見てもモダンに感じられます。出品作のネーミングもとてもユニークです。神奈川県立近代美術館で展覧されたカタログだけを集めた貴重な資料の中の1つです。

雑誌のとびら

紹介資料表紙 「5萬人の廣場 丹下健三」
『芸術新潮』 新潮社 第7巻第1号 1956年1月号 76p~80p 請求記号:Z705/1

広島平和公園にかかる2つの橋の欄干はイサム・ノグチのデザインによるものですが、実は当初原爆慰霊碑も建築家丹下健三と当時の広島市長からノグチに依頼されていました。あとは正式採用の手続きをすませればいい段階になって、作品の芸術性とは無関係な理由で不採用となります(後に丹下が設計)。戦後の熱烈な来日歓迎ぶりから一転、日本は結果ノグチを受入れようとはしませんでした。自身の結婚式の前日まで精魂かたむけた慰霊碑模型も、戦後の日本に自分が何か役に立てるのではというノグチなりの期待も行き場をなくしてしまいました。数年後、丹下からみた当時のいきさつなどを綴っているのがこの記事です。

紹介資料表紙 「イサム・ノグチを歩く」
『美術手帖』 美術出版社 1996年7月号 14p~72p 請求記号:Z705/4

巻頭特集で「イサム・ノグチを歩く」と題し、高松市牟礼のアトリエ、当時完成途中だった札幌モエレ沼公園、ニューヨークのイサム・ノグチミュージアムを写真入りで紹介。日本で鑑賞できるノグチの作品所在地(発行時)の一覧があります。横浜市のこどもの国、草月会館、慶應義塾大学などにあるノグチの作品もイラストで解りやすく解説されています。異母弟野口ミチオ氏のインタビューも掲載されています。

インターネットのとびら

横浜美術館
https://yokohama.art.museum/index.html
2019年1月12日から3月24日「イサム・ノグチと長谷川三郎 変わるものと変わらざるもの」展が開催されます。画家の長谷川はノグチの最良の理解者の1人でした。1950年代初め、鎌倉に住んだノグチと辻堂に住んでいた長谷川は毎日のように会い、京都へも庭園や寺院を巡る旅に出ました。また横浜美術館はノグチの6作品を所蔵しています。横浜美術館発行の図録『イサム・ノグチ世界とつながる彫刻展』(請求記号:712.53RR/6 県立公開)も当館では所蔵あり。

イサム・ノグチ庭園美術館
http://www.isamunoguchi.or.jp/
公益財団法人イサム・ノグチ日本財団のウェブサイトの中で[イサム・ノグチ庭園美術館](高松市牟礼)を紹介しています。1958年頃ノグチはパリのユネスコ庭園で使用する石を求めて初めて牟礼を訪れました。その時知り合った和泉正敏氏とはその後仕事のパートナーとなります。和泉氏が敷地内に提供した作業場が、ノグチの日本でのアトリエとなりました。ノグチが住んだイサム家、作品展示蔵、作業場マル、そして庭。ノグチの死後は[イサム・ノグチ庭園美術館]となってオープンしました。往復はがきで予約申込みをしてから見学する手順になっており、はがきの書式がこのサイトでダウンロードできます。