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本の表紙画像(『目の見えない人は世界をどう見ているのか』 伊藤亜紗著)映画『アマデウス』の中から。宮廷内のサリエリがふと楽譜をめくると、そこからえも言われぬ優美な歌声が流れでてきます。もう一枚めくると今度は全く様相の異なる力強い音楽があふれ出てくる。次から次へと楽譜をめくるたびに、そこからは胸をわしづかみにされるような旋律の数々が「聞こえて」きます。野卑な天才児モーツァルトがそれらを作ったということに、努力の人サリエリが打ちのめされるという場面です。この時サリエリは目で楽譜を追っていますが、彼の中ではその音楽が鳴っていました。サリエリが特別な音楽の教育を受けているという点は差し引かねばなりませんが、いわば目という「見る」器官を使って彼は音楽を「聴いて」いたといえるのではないでしょうか。「耳」という器官から「聴く」が切り離されています。

本書の中では、目の見えない人が「目」という器官がやると思われている仕事を、他の器官で行っている様子が明らかにされていきます。目の見える人は「目」で文字を「見」て文章を「読ん」でいます。しかし「指」で点字を「触」って文章を「読む」ことはもちろん、「耳」で隣の席の話し声や外の音を「聞き」周囲の様子を「眺め」たり、身体の各器官とその仕事の結びつきがほどかれていきます。「器官と能力を結びつける発想を捨てること」で、見える人と見えない人の(違いではなく)類似性が見えてきます。著者はまず、見える人、見えない人の間の類似性という共通の土台を見つけて、その上にお互いの違いについて語り合える関係、最終的にはその差異を面白がる関係を築こうとしています。

また、「読む」とは何をしているのかもほどかれていきます。紙の上にある線やパターンを認識して、それを文字として理解し、そこから意味を構成していく作業、それを「読む」と名指していたことに改めて気づかされます。目の見えない人のことを考えることによって自分自身の姿も見えてくる、あたかも目の見えない人は見える人自身を映す鏡のようです。差異を持った人をまなざす目は自分自身をも見つめ返す目となり、また別の他者をまなざす目となっていく、そんなまなざしの循環が「特別視でもなく対等な関係ですらなく、揺れ動く関係」につながっていく回路を開くのではないでしょうか。その先には、目の見えない人の見ている世界が羨ましく感じられる瞬間も訪れるはずです。
そしてそれはきっと、気持ちよく居心地のいい関係であるに違いありません。

『目の見えない人は世界をどう見ているのか』 伊藤亜紗著 光文社 2015年
資料番号:23151236 請求番号:369.27/372 OPAC検索

(県立図書館:Yちゃんに捧ぐ)