本書に出てくる帝京高校サッカー部(以下、帝京)についての私の知識は、有名なお笑いタレントが、高校時代に所属していたことをよくテレビで話していた、という程度でした。現在も帝京は強豪校で、昨年(2019年)までのデータでは、全国高校サッカー選手権において、1974年以降優勝6回、準優勝3回している高校です。
その帝京と同じ東京・十条に立地し、帝京から直線距離で500mくらいにある東京朝鮮高校サッカー部(以下、東京朝高)は、1974年、1977年、1979年、1983年、1984年に優勝した全盛期時代の帝京が対戦を望むくらい強く、「影のナンバーワン」と呼ばれていたそうです。本書は、強いのに「影のナンバーワン」と呼ばれた東京朝高と、監督として1971年から1986年まで率いた金明植さん(以下、金監督)の時代を中心に書かれています。
1960年頃、東京朝高は帝京と「十条ダービー」と称した練習試合を行うようになりました。以後、その強さから「朝高詣で」と言われるくらい、日本の高校が足繁く通うまでに強い高校となっていました。しかし、この高校は、文科省管轄の高等学校ではなく、自動車学校などと同じ各種学校であり、1954(昭和29年)の1年を除いて、1996(平成8)年までの42年間、全国高校サッカー選手権の予選にも出場を認められなかった高校でした。
タイトルにある、「至強」なのに「無冠」とはこの理由からでした。全盛期の帝京ですら歯が立たなかったので、「影のナンバーワン」と呼ばれるようになったのもうなづけます。
この東京朝高を率いた金監督は1936年に東京・深川で生まれ、1943年に東京・枝川に移り住んで育った在日2世の朝鮮人です。金監督が幼少期を過ごした枝川は、在日朝鮮人の方々が多く住む集落でした。また、民族運動の拠点でもあったため、警察からの弾圧も厳しかったそうです。そのような事情から子どもたちは枝川の外へは遊びに行きにくい時代だったので、以前から朝鮮人に親しまれていたサッカーは、当時の子どもたちのよりどころとなっていました。
「ひたすらサッカーをしていた」という子ども時代を過ごした金監督が東京朝高の監督となり、日本のサッカー界とどう関わっていったのかが、本書には詳しく書かれています。(神奈川では、神奈川朝鮮中級学校の教師や在日朝鮮人神奈川県体育協会で勤務されていました。)
金監督は自分のことをあまり話さない謙虚な人のようでしたので、著者は精力的に取材をされています。
金監督本人はもちろんのこと、幼少期に育った東京・枝川について知る人、選手時代の金監督を知る人、金監督の教え子、「十条ダービー」をした超強豪校時代の帝京の監督など、幅広く取材しており、金監督は汚いプレーを嫌い、人間味のある指導者だったことが伝わってきます。
また、私の心に残った、東京朝高の生徒についての取材があります。
「十条ダービー」が始まるまで個人的にも朝鮮人への偏見はなかったのか?という著者の問いに対して、第1回「十条ダービー」を知る当時の帝京の生徒は、「いえ、ありましたよ。(中略)あったけど、実際に接して親しくしてくれる人がいたから、朝鮮人だ、何人だじゃなくて、李さんだ、金さんだ、と人間として繋がれた。(中略)それに自分たち(帝京)もサッカーがうまくなりたいじゃないですか。朝高の選手はみんな上手いし、そこからリスペクトが生まれて偏見が解けていったと思うんです。」と答えています。
今以上に差別が厳しい時代に、当時の在日朝鮮人の高校生たちと日本のサッカー強豪校の高校生たちがサッカーで交流を続けられてきた歴史をこの本は教えてくれます。最後に著者は、「差別が愚かなのは人間の可能性を封じ込んでしまうこと」と書いています。日本の高校として認められず、公式戦に出られなかった高校サッカー部の本ですが、読んだ後は、今、世界中で起きている民族問題についても考えさせられることでしょう。
『無冠、されど至強 東京朝鮮高校サッカー部と金明植の時代』 木村元彦著 ころから 2017年
資料番号:22966931 請求記号:783.47/137 OPAC検索
(県立図書館:サッカーは苦手)
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