明治150年関連行事が全国で開催されています。当館でも8月10日から11月7日まで 企画展示「マリア・ルス号事件~明治という時代と日本人の正義感~」を開催しています。
同時期に起こった「生麦事件」はよく知られていますが、「マリア・ルス号事件」はあまり知られていない事件のようです。しかし、我が国が初めて関わった国際裁判としても、近代日本が国際外交にデビューするうえでも非常に重要な事件でした。舞台は横浜。神奈川県にも非常に関係深い事件でした。
「マリア・ルス号事件」の概要は次のようなものでした。
明治5年、ペルー船「マリア・ルス号」がマカオを出発、ペルーにむかう途中、嵐による船体破損を補修するために横浜港に寄港しました。乗船していたひとりの清国人苦力(注:クーリー)が奴隷同様の扱いに耐え兼ね同船を脱出、英国軍艦に救助されました。このことに端を発し、通報を受けた我が国の裁判によって230名の清国人苦力が解放されました。
裁定を不服としたペルー政府が抗議します。明治初頭、まだ近代法制度も整わない中で突然起こったマリア・ルス号事件は、日本が初めて直面する国際裁判に発展します。翌年の明治6年ペルー政府は日本に損害賠償を要求し、事件は二国間では決着せず、第三国であるロシア皇帝の採決に一任されます。明治8年ロシア皇帝の下した採決は「日本に賠償責任はない」というものでした。
注:(クーリーとは中国やインドなどの下層労働者のこと。もともとは欧米の奴隷解放が進むなか、19世紀後半に黒人奴隷に代わる労働力として植民地などに送られたインド人の移民・出稼ぎ労働者を指していました。のちに中国の貧困な下層労働者も対象となり苦力の字があてられます。労働力の売買はほとんど奴隷契約に近く、苦力貿易は実質的な奴隷貿易でした)。
この頃の、日中関係、日ロ関係においてもマリア・ルス号事件は大きな関わりを持っています。日本が欧米諸国と結んだ不平等条約を解消するために奔走している時代に初めて対等の関係で条約を結んだ国が清国でしたが、条約の批准直前に事件は起きました。この事件は日中友好に大きく貢献することになります。
またペルー・日本両国がロシア皇帝にこの裁判の採決を一任した時期、ロシアと日本両国の間には領土問題が立ちはだかっていました。この事件をきっかけに全権公使となった榎本武揚は領土問題を鮮やかに解決し、樺太千島交換条約にまとめるとともにこの国際裁判を日本の全面勝訴に導きます。
今回の展示では、近代化を急ぐ中でこの事件に果敢に取り組んだ日本の若き官僚たちが示した、明治という時代の日本人の正義感や人権保護を重要視する姿を当館資料を通して紹介します。裁判は日本側の全面的勝利に終わり国際社会からも日本の人道的扱いは高く評価されることになります。
またこの事件の中心人物である外務卿・副島種臣、神奈川県権令・大江卓に贈られた頌徳の大旆(しょうとくのたいはい)についてもあわせて紹介します。
大旆はこの事件当時の数少ない現存資料であり、近代における日中友好の記念品としても重要なものです。
在日華僑の団体である横浜中華会館の人々から贈られた大旆(たいはい)は、赤色の繻子地に金泥を用いて感謝の詩が綴られている、巨大な旗です。
大江卓宛の大旆は縦349cm×横188cm、副島種臣宛の大旆は縦333cm×横187cmの大きさです。この大旆は当館に所蔵されていますが非常に大きく会場に展示できないため、今回は1/4パネルを展示しています
(県立図書館:展示担当)
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