新着資料から
『北条氏五代と小田原城 人をあるく』
山口博著 吉川弘文館 2018年[K24.7/177]
北条氏は、上杉氏、武田氏、毛利氏などと並ぶ戦国屈指の大名です。明応年間(1492~1501)に韮山城に拠点を据えた初代・宗瑞(北条早雲)は伊豆・相模などを平らげ、次いで二代・氏綱が小田原城に本拠を構えます。以後、北条氏は関東全域の領国化に向けて突き進み、五代・氏直のころには、関東制覇は目前でした。しかし天正18年(1590)、豊臣秀吉によってその夢は潰えます。本書は、こうした約100年に及ぶ北条氏の業績をたどるとともに、小田原城の発展の歩みを振り返っています。
北条氏には、戦国大名として特異な面が見られます。たとえば戦国大名の多くが地域領主から発展したとされますが、宗瑞は将軍・足利義尚の申次などを務めた京下りの大名です。また、北条氏には一族間の対立が見られません。さらに長曾我部氏、島津氏、徳川氏など、戦国末期に数か国を領する規模に発展した大名の多くが、同様に秀吉と衝突しましたが、結果的に滅亡したのは北条氏のみでした。著者はこうした北条氏の特長にも焦点をあてて解説しています。
『宮川香山釉下彩 美術となった眞葛 明治の釉下彩 1』
関和男著 創樹社美術出版 2018年[K75.1/44]
帝室技芸員・宮川香山は明治を代表する陶芸家です。当時から、香山釉下彩作品は欧米で高い評価を得ており、マクズウェアと呼ばれました。釉下彩とは明治時代に西洋から輸入された色絵技法で、従来の色絵は器が焼き上ってから絵付をしていましたが、釉下彩は焼き付け前に絵付をします。
香山は天保13年(1842)、京都の陶家の四男として生まれました。明治3年(1870)に貿易陶磁商品を制作するため、横浜に移住し、新たな窯を立ち上げます。そして、高浮彫という独創的な陶器を創出しました。しかし明治15年(1882)ごろから和漢の陶磁器を研究し、美術陶磁作品へと転向します。明治20年代後半、香山スタイルは確立され、その柱に釉下彩がありました。
今日、香山と言えば高浮彫と思われがちで、釉下彩作品の研究は進んでいません。本書は、そのような香山釉下彩作品を体系化して紹介するものです
新着の神奈川資料
新着資料の一部をご紹介します。
タイトル | 著者名 | 出版者 | 出版年 | 請求記号 |
---|---|---|---|---|
封印された殉教 上 第2版 | 佐々木宏人著 | フリープレス | 2018 | K19.1/204/1 |
関東戦国全史 関東から始まった戦国150年戦争 歴史新書y 079 | 山田邦明編 | 洋泉社 | 2018 | K24/534 |
「建久四年曾我事件」と初期鎌倉幕府 曾我物語は何を伝えようとしたか | 伊藤邦彦著 | 岩田書院 | 2018 | K24/535 |
房総里見氏の城郭と合戦 図説日本の城郭シリーズ 9 | 小高春雄著 | 戎光祥出版 | 2018 | K24.39/29 |
絵筆のバトン 画廊主・笠木和子の90年 | 細井聖著 | 読書サポート | 2018 | K28/495 |
福原高峰と「相中留恩記略」 近世民間地誌にみる「国」意識 近世史研究叢書 51 | 斉藤司著 | 岩田書院 | 2018 | K291/886 |
僕たちが零戦をつくった 台湾少年工の手記 | 劉嘉雨著 | 潮書房光人新社 | 2018 | K39.51/21 |
逗子サンゴものがたり 相模湾の四季 | 長島敏春著 | じゃこめてい出版 | 2018 | K48.32/2 |
小田急1800形 昭和の小田急を支えた大量輸送時代の申し子 戎光祥レイルウェイリブレット 4 | 生方良雄著 | 戎光祥出版 | 2018 | K68/617 |
JR京浜東北線沿線の不思議と謎 じっぴコンパクト新書 348 | 松本典久編著 | 彩流社 | 2018 | K68/618 |
鎌倉深奥 平川正枝写真集 | 平川正枝著 | 現代写真研究所出版局 | 2018 | K74.4/37 |
サザンオールスターズが40年も愛される48の秘密 We Love SAS | SASウォッチャー編集部編 | 辰巳出版 | 2018 | K76.53/24 |
真夏の球譜 上 K100神奈川高校野球 かもめ文庫 70 | 神奈川新聞運動部編著 | 神奈川新聞社 | 2018 | K78/328/1 |
うちのおたから自慢
『天狗講大山詣』
磯ケ谷紫江著 1956年[K18.64/3]
本書は、著者が昭和31(1956)年5月26日に行われた「天狗講発会式」と、翌日に行われた「酒祭り第五回」に参加し、その様子を記したもので、大山の歴史的考察も加えています。騰写版で、奥付に「限定五十部 第七冊」("七"は手書き)とあります。「天狗講」とは小生夢坊を主催とする文化集団で、「平和祈念の大山カーニバル」と記されています。画家・随筆家・社会評論家であった小生夢坊(1895-1986)は、石川県金沢市に生まれ、19歳で『中越日報』の編集長を務めます。上京後は浅草に住み、浅草に集う文化人・芸能人らの要となりました。また、一葉記念館、下町風俗資料館の建設にも尽くしています。著書に『天狗まんだん』などがあります。
本書には、発会式の当日は無形文化財の「大和舞」と「大山能狂言」、「林屋正蔵」の落語「大山詣」が行われ、翌日に「包丁式」(材料に手をふれず包丁と箸だけで調理する儀式)と「巫子舞」が行われた、と書かれています。
著者の磯ケ谷紫江(1885-1961)は、『愛書家の散歩 続』によると墓蹟研究家であり、死絵(人気のあった歌舞伎役者や芸人の歿後に板行される錦絵)の蒐集家でもあったといいます。判事だった父の赴任先の栃木県で生まれ、日大法科を卒業して法官庁の執達吏を務めました。『墓碑史蹟研究』や、浅草での会席記録である『奥山』、趣味生活を記した個人雑誌『紫江帖』などを発行しています。また、句会「半面」を主宰したり、蕎麦の研究も行いました。
著者は明治43年(1910)にも大山を訪れており、四谷愛住町(新宿区)の自宅を夕方に出て、渋谷から二子の渡しを経て翌朝、大山の下社に着き、さらに奥の院まで下駄で登ったと記しています。「天狗講」に参加したときは亡くなる5年前でしたが、最大斜度30度もある男坂を登って下社まで行った、と記されています。
写真(左) 『天狗講大山詣』表紙
写真(右) 『天狗講大山詣』中表紙
・画像をクリックすると拡大します
【参考文献】
・『神奈川県立図書館紀要 第9号』神奈川県立図書館 2011年[K097/4/9] 「<資料解 説>かながわ資料室所蔵の大山関係資料について」鈴木めぐみ著
・『愛書家の散歩 続』斎藤夜居著 出版ニュース社 1984年[024.2/3/2]
・『20世紀日本人名事典 あ~せ』日外アソシエーツ 2004年[281.03/300/1]
・「王朝しのぶ包丁式 伝統の技 横浜」神奈川新聞1994年5月16日18面
・「神輿200キロ『おくだり』伊勢原・大山阿夫利神社大祭」神奈川新聞2002年8月28日21面
コラム・かながわ・フォーカス
[神奈川の祭り 昭和の記録写真から]
≪倭舞・巫子舞≫伊勢原市(大山阿夫利神社)
写真撮影日:昭和39年(1964)8月29日 [請求記号:K45]
【解説】
阿夫利神社の秋季大祭において、社務局の行在所で例年8月28日に奉納されるもので、県の無形民俗文化財に指定されています。阿夫利神社の祠官(しかん)・権田直助と孫の一作が、奈良春日大社の富田光美から伝授されたもので、富田家から伝わった写本「倭舞歌譜」によれば明治6年(1873)に伝習を許され、明治11年(1878)に初めて祭典で舞っています。原本は平安時代のものとされます。阿夫利神社では継承のため、明治16年(1883)に「倭舞巫子舞 規則」を制定し、舞は地元の中高生に受け継がれています。
倭舞は一歌~八歌まであり、10歳~15歳の少年4人で舞います。そのほかに六位舞という最年長者一人で行う舞が3曲あります。舞は、おおらかな王朝気分を漂わせています。
巫子舞は、「若宮」「計歌(ひとふた)」「珍らしな」など7曲があり、女児(八乙女という)が4人ないし6人で舞います。そのほかに白拍子舞という、年長童女の一人舞が2曲あります。
計歌は特殊な舞態で、4人が正方形舞形をとり、その中央に2人が立って舞い、中途でピョコンと跳りあがる振りがあります。『神奈川県文化財図鑑 第3巻 無形文化財・民俗資料篇』によれば、その歌詞は、原始信仰の呪術性をもつが、陰陽道にも通じるものがあり、研究資料として貴重な舞態、と考えられています。
・画像をクリックすると拡大します
【参考文献】
『神奈川県文化財図鑑 第3巻 無形文化財・民俗資料篇』神奈川県教育庁社会教育部文化財保護課編 1973年[K06/29/3]
『神奈川県民俗芸能誌 増補改訂版』永田衡吉著 錦正社 1987年[K38/15A]