公開

新着資料から

『ようこそ!横浜地図ワールドへ まちの移りかわりが見えてくる』
横浜都市発展記念館編 横浜市ふるさと歴史財団 2017年 [K292.1/183]

一枚の地図にはその地域が持つ個性や魅力があふれています。
この本はまず近現代を対象にさまざまな地図とその作成のあゆみを紹介しています。次に明治・大正から昭和にかけて、「横浜」の名を付した地図を時代順に追っていくことで、横浜のまちがどのように移りかわっていったのかを見ることができます。
さらに広い市域を区分する全18区について、昭和の時代を中心に各区の姿を地図でたどりながら、横浜の詳細な地理がわかるようになっています。たとえば県立図書館がある西区のページでは、昭和15年ごろの戸部警察署管内の旅館の地図が掲載されていますが、その中にはカモン山、紅葉坂、モミヂバシなど、今でもおなじみの名称を見ることができます。
縦21cm、横30cmの横長の本の中に地図が掲載されていますので、文字がかなり小さくなっています。拡大鏡を片手にご利用ください。

『鎌倉近代建築の歴史散歩』
吉田鋼市著 港の人 2017年[K52.4/28]

鎌倉の建築物というと、まず中世の寺院仏閣を思い浮かべる人も多いと思いますが、避暑避寒の別荘地だった鎌倉は優れた近代建築の宝庫でもあります。本書は、長年に渡り神奈川県の近代建築調査に携わってきた著者が参加した、鎌倉市の景観重要建築物の調査が下地となっています。その調査報告書(2013年)に掲載された28件と、掲載されていないが著者が重要と見なした近代建築物14件、戦後の建物8件を加えた計50件を取り上げ、歴史、見どころを解説しています。時に所有者や設計者のみならず、大工の名前まで紹介しているところに、著者の建築に対する深い愛情が窺えます。有名な鎌倉文学館や古我邸などの邸宅はもちろん、旧・安保小児科医院や旧・鎌倉図書館、旧・鎌倉加圧ポンプ所など、実に多様な建築物が掲載されており、鎌倉の魅力の幅広さをあらためて感じることができるでしょう。

新着の神奈川資料

新着資料の一部をご紹介します。

タイトル 著者名 出版者 出版年 請求記号
横濱 2018年新春号 Vol.59 横浜市との協働編集誌 横浜市広報課・神奈川新聞社編 神奈川新聞社 2017 K05.1/66/59
益田鈍翁と横井夜雨 特別展 小田原市郷土文化館 編 小田原市郷土文化館 2017 K06.7/20/ 2017-10
祈りとご利益 川崎大師公式ガイドブック 大本山川崎大師平間寺 2018 K18.21/56
関東上杉氏一族 中世関東武士の研究 第22巻 黒田基樹編著 戎光祥出版 2018 K28/487
使命 ツルネン・マルテイの自叙伝 ツルネン・マルテイ著 皓星社 2017 K28.85/38
鎌倉の歴史 谷戸めぐりのススメ 高橋慎一朗編 高志書院 2017 K291.4/463
ルポ川崎 磯部涼著 PHP研究所 2017 K28.7/140
神奈川大学史資料集 第34集 神奈川大学会議録 18 大学資料編纂室編 神奈川大学 2017 K37.12/44/ 34
神奈川の庚申塔事典 鷹取昭編 鷹取昭 2018 K38/257
神奈川県建設名鑑 2018年版 新装版 日本工業経済新聞社 編 日本工業経済新聞社 2018 K51/214/ 2018
Memories of HOTEL NEW GRAND 時代を超えて愛され続ける横浜クラシックホテルの軌跡 ホテルニューグランド編著 神奈川新聞社 2017 K68.1/79/90
木のものづくり探訪 関東の木工家20人の仕事 西川栄明 渡部健五 写真 創元社 2017 K75/60
鎌倉文士とカマクラ 銀鈴叢書 富岡幸一郎著 銀の鈴社 2017 K91.4/108

うちのおたから自慢

『福住正兄万福講定宿びら』
「ふくずみ△まさえ△ばんぷくこう△じょうやどびら」 (縦95cm・横37cm 木版) [K157/92]

『福住正兄万福講定宿びら』は、説明や広告の掲示物と見られますが、その右端に「總躰△白ペンキ塗△日ノ丸△朱△櫻△白ペンキ△筋黒△文字△黒漆△徽章文字トモ彫込ノ事」とあることから、これは作成時の見本とも考えられます。
本文中の「福住正兄」は、文政7年(1824)、片岡村(平塚市)の名主・大沢家に生まれました。後に二宮尊徳に入門し、『二宮翁夜話』『富国捷径』を執筆しました。さらに小田原藩の国学助教授に任じられ、報徳協会を設立しています。一方、嘉永3年(1850)に湯本村(箱根町)の旅館を営む福住家の養子となります。そして、自分の旅館の絵を入れた錦絵『七湯方角略圖』〔K292.85/6〕を歌川広重に作ってもらい、広告として配りました。翌年には湯本村の名主となり、温泉場の適正営業や道路拡幅工事を推進しています。
本文中の「萬福講」とは、佐々井信太郎編『福住正兄翁傳』1924年〔K157/214〕によると福住正兄が組織した団体で、藤沢~沼津間において宿泊客に行先の旅館を紹介し合う「差宿(さしやど)」の仲間において、旅客に雨傘を提供することを目的としていました。講に加入した宿は、雨具のない客に金40銭と引き換えに傘を貸し、客は傘が使用済みとなった時か、次の宿に泊まった時に傘を宿に渡し、宿から40銭が支払われる仕組みとなっています。もし客が傘を返さなければ、40銭で傘を買い取ったことになるといいます。
本文中の「福羽美静」は津和野藩士で、天保2年(1831)に生まれ、元老院議官・貴族院議員を務めた人物です。また、冒頭の「従四位」という官位を示す記述については、朝倉治彦編『明治初期官員録・職員録集成 第2巻』1981年〔281.03/133/2〕によると、明治3年(1870)6月に「福羽四位」とあります。さらに朝倉治彦編『明治初期官員録・職員録集成 第3巻』1982年(当館未所蔵・国立国会図書館蔵)によれば、明治19年(1886)7月に「正四位勲二等福羽美静」となっています。福住が「正兄」と名乗り始めたのが明治4年(1871)なので、『福住正兄万福講定宿びら』は明治4年から明治19年ごろのものと考えられます。

「福住正兄万福講定宿びら」

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【参考文献】『近代西相模の報徳運動』早田旅人著 夢工房 2013年[K157/674]

コラム・かながわ・フォーカス
[神奈川の祭り 昭和の記録写真から]

≪傘焼祭≫小田原市曽我谷津(城前寺)

写真撮影日:昭和38年(1963)5月28日 [請求記号:K38]

【解説】
撮影当時は曾我氏一族の墓がある浄土宗城前寺で、曾我兄弟の命日である5月28日に行われましたが、現在は5月下旬の土曜日・日曜日に、下曽我駅前の梅の里センターなどで傘が燃やされます。昭和12年(1937)に中断しましたが、昭和33年(1958)に復活しました。由来は、曾我兄弟が源頼朝の富士の巻狩りにて父の敵、工藤祐経を討った際、傘を燃やして松明にしたという故事に基づいています。寺伝によれば、江戸中期以後、歌舞伎狂言に曾我物が盛んに演じられたころから始まったといいます。以前は、曾我兄弟の墓前に和傘を積み上げて火を放ち、僧侶がその火を巡って行道・供養しました。傘は旅館やお寺の古傘を使用していましたが、近年は和傘が減ったため岐阜県で購入しています。また、傘は瘡(天然痘)に通じ、傘を焼くことは無病息災の祈願ともいわれています。
鹿児島市でも旧暦の5月28日近辺(7月中旬から8月初旬)に、古傘を積んだ台場を河畔に造り、青年団と稚児が裸姿で歌を歌いながら傘を焼く「曽我どんの傘焼き」という行事があります。また、秦野市蓑毛では、「二十八日の日はソガドの田植えはしてはいけない。馬が汗をかくから」という伝承があります。旧暦の5月28日に降る雨を虎が雨といい、虎御前の涙でその日は必ず雨が降るという伝承もあり、傘焼きまつり本来の意味として、田植えなどによせる雨乞祈願が潜在していると考えられています。

写真1
【写真1】曾我兄弟に扮した稚児が、傘に
点火しようとしています。稚児の参加は
近年の創作です。
写真2
【写真2】傘は、以前は家々から一年間に奉
納された古傘を使っていました。戦前は蓑
傘も焼いたといいます。

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【参考文献】
『かながわの祭と芸能』永田衡吉著 神奈川県県民部文化室企画 神奈川合同出版 1977年[K38/52]
『博物館展示と地域社会』西海賢二著 岩田書院 2014年[069.5/15]