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新着資料から

『戦国・江戸時代を支えた石 小田原の石切と生産遺跡 シリーズ「遺跡を学ぶ」 132』
佐々木健策著 新泉社 2019年[K21.7/50]


近世の西相模地域では、箱根火山の恩恵により、「根府川石」など、石が特産品でした。
本書ではまず、小田原市の「山角町遺跡第IV地点100号遺構」で発見された、五輪塔や石臼などの未成品から、その高度な加工技術を紹介しています。当遺構は小田原北条氏時代のもので、早川によって運ばれた、箱根中央火口丘の安山岩が大半を占める、と述べています。
次に、江戸城築城のための石材を提供した「早川石丁場群関白沢支群」について解説しています。当遺跡には、今も巨石が山中に点在しており、石を割るための「矢穴」が多数あけられたものや、管理者名や作業単位を示す刻印が施されたものがあり、当時の状況をしのばせている、と述べています。
また、後半には西相模地域の石工の歴史についても触れています。

『「湘南」の誕生 音楽とポップ・カルチャーが果たした役割 The Birth of "Shonan"』
増淵敏之著 リットーミュージック 2019年[K291/891]


本書は、「湘南」というイメージがどのように形成されていったかということを、文学、音楽、映画、マンガ、アニメなどから多角的に分析しています。
「湘南」の範囲は曖昧であり、一般的な印象と、行政区域や自動車ナンバーなどが設定した範囲では異なっています。そこで、著者はアンケート結果と国道134号線のルートから、「湘南」のエリアを葉山町、逗子市、鎌倉市、藤沢市、茅ヶ崎市、平塚市、大磯町と想定しました。
「湘南」のイメージ形成は、別荘族などの富裕層によって始まります。戦後になると米軍基地の建設などにより、アメリカ西海岸の文化に影響を受けた若年層に広がります。さらにマンガ『湘南爆走族』などに見られる「ヤンキー層」が付加され、その後、地域の生活色が注目されるようになり、「オールマイティなイメージを持っている不思議な空間になった。」と著者は述べています。

新着の神奈川資料

新着資料の一部をご紹介します。

タイトル 著者名 出版者 出版年 請求記号
北条氏康の家臣団 戦国「関東王国」を支えた一門・家老たち 歴史新書y 081 黒田基樹著 洋泉社 2018 K24.7/178
なぜあの人は輝いているのか 脳が教えてくれる生き方のヒント 蓑宮武夫著 PHP研究所 2019 K28/501
今川氏親と伊勢宗瑞 戦国大名誕生の条件 中世から近世へ 黒田基樹著 平凡社 2019 ホウ/K28.7/144
わたしもじだいのいちぶです 川崎桜本・ハルモニたちがつづった生活史 康潤伊編著 日本評論社 2018 K31.21/133
大仏さまと愛の顕彰碑(モニュメント) ジャヤワルダナ元スリランカ大統領と日本 上坂元一人著 かまくら春秋社 2019 K31.4/57
異議アリ! 市民本位の改革を断行した、商人市長の12年 古谷よしゆき著 PHPエディターズ・グループ 2018 K31.63/26
生きづらさを抱える若者たちと ともに暮らしともに生きる若者支援のリアル 小林献著 K2インターナショナルグループ編 いのちのことば社 2018 K36/1248
主婦たちが築いたまちづくり 「コスモスの家」の30年 渡辺ひろみ編著 自治体研究社 2018 K36.21/232
カラフルな学校づくり ESD実践と校長マインド 住田昌治著 学文社 2019 K37.1/348
九十歳野菜技術士の軌跡と残照 板木利隆著 創森社 2019 K62.61/12
江ノ電のいる風景 高橋康資著 東京図書出版 2019 K68.4/63
たのしめてるか。 湘南ベルマーレ2018フロントの戦い 変化・成長湘南の未来 SANNO BOOKS 水谷尚人著 池田タツ著 産業能率大学出版部 2019 K78.62/28/ 2018
山の上の家 庄野潤三の本 庄野潤三著 夏葉社 2018 K97.21/37

うちのおたから自慢

『相武聖蹟行幸の阯』明治天皇相武聖蹟敬仰会編[K26/23]
「伊勢山離宮」 「東海鎭守府」

『相武聖蹟行幸の阯』は、神奈川県内の「明治天皇聖蹟」の写真集です。明治天皇の行幸における目的地や休憩所、宿泊所などが、昭和8年(1933)から集中的に、史蹟名勝天然紀念物保存法(1919年制定)に基づき、聖蹟として文化財に指定されました。しかし、昭和23年(1948)、GHQの指示により、指定は解除されました。
写真中央の「伊勢山離宮」は、明治8年(1875)に現在の西区宮崎町にあった三井組所有の洋館が宮内庁に引き渡され、明治天皇の行幸時の休憩所となったものです。翌年、東奥巡幸の帰路で、宿泊しています。明治14年(1881)には、布哇(ハワイ)国カラカウア皇帝も宿泊しました。「伊勢山離宮」は通称で、明治14年(1881)に「横浜御用邸」と正式に称することになりました。明治18年(1885)に御用邸は廃止され、神奈川県に払い下げられました。
明治17年(1884)年、写真右の「東海鎭守府」(現・中区北仲通)が横須賀へ移ると、翌年、その跡地に横浜御用邸が移転してきます。木造の洋館平屋建てで、敷地は海に面し、浮桟橋もありました。明治天皇は明治26年(1893)まで、当御用邸で休憩や昼食をとっています。明治40年(1907)にはこの御用邸も廃止となり、建物は神奈川県に払い下げられました。

『相武聖蹟行幸の阯』表紙 「伊勢山離宮」 「東海鎭守府」

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【参考文献】
・『明治天皇、横濱へ 宮内省文書が語る地域史』横浜開港資料館編 宮内庁宮内公文書館編 横浜市ふるさと歴史財団 2016年[K28.1/619]
・『皇室建築 内匠寮の人と作品』内匠寮の人と作品刊行委員会編 浅羽英男ほか著 鈴木博之監修 建築画報社 2005年[521.82/29]
・「東京府における明治天皇聖蹟指定と解除の歴史」北原糸子著 『国立歴史民俗博物館研究報告』第121集 国立歴史民俗博物館 2005年[請求記号:Z381/19]

コラム・かながわ・フォーカス
[神奈川の祭り 昭和の記録写真から]

≪お馬流し神事≫横浜市中区(本牧神社)

県指定無形民俗文化財
写真撮影日:昭和39年(1964)8月11日 [請求記号:K46]

【解説】
お馬流しは、茅で作ったお馬を海に流すことで厄神を祓う神事です。社伝によれば、永禄9年(1566)に始まりました。昔は旧暦の6月15日に行なわれましたが、撮影当時は、8月の午後1時ごろに満潮になる日が選ばれました。現在は、8月の第1日曜日か第2日曜日に行われています。
お馬は、頭と首が馬で、体が亀の形に作られます。頭部に白幣をさし、口に稲穂をくわえさせ、胴体には神饌と神酒を置きます。お馬の数は、旧本牧の六ヶ村に因んで6体作られます。茅は神社の社有地から採取し、羽鳥家という旧家の当主がお馬を作ります。祭りの前日には、総代が羽鳥家に赴いてお馬を唐櫃にいれて神社に迎えてくる、お馬迎えの式が行われます。以前は、祭りの当日早朝にお馬を本牧河岸のお仮屋に安置した後、神船へ運んでいましたが、現在は、トラックで漁港まで移動します。お馬をトラックや船へ移す際は、紋付羽織に白足袋の総代や町の代表たちが、頭上から頭上へ渡して運びます。運ぶ時は非常にゆっくりと進みますが、船の20歩ほど手前まで来ると、突然駆け出します。お馬は東京湾の沖合で海に流されます。

写真1
【写真1】お馬は、両足を束
にして止まる動作を行
いながら運ばれます。

写真2
【写真2】神船は舳の長く突
き出た2隻の和船で、櫓
や櫂で漕いで進みます。

写真3
【写真3】神船2隻は、お馬を3体ずつ乗せ、海に流すと同時に、左廻り
に船首を陸の方にまわし、競争を始めます。一時期、発動機船1隻に変
わり、神船は神社境内に保管されていましたが、平成25年(2013)に復活しました。

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【参考文献】
・『神奈川県文化財図鑑 第3巻 無形文化財・民俗資料篇』神奈川県教育庁社会教育部文化財保護課編 1973年[K06/29/3]
・「横浜みなと新聞 第103号 危機乗り越え450回超 本牧神社『お馬流し』 大空襲 米軍の接収 埋め立てで危機」神奈川新聞2018年7月2日朝刊15面